前回の投稿からだいぶたってしまいましたが、大山の建物についての続きを書きたいと思います。
①では、前不動と龍神堂を中心に書きました。そこからしばらく山を上がると今回取り上げる建物である本堂、青銅製宝篋印塔が建つ大山寺境内にたどり着きます。
大山寺は、山腹の平地にあるため、境内に建物がひしめいている印象です。中心となるのが、階段を上った正面に建つ本堂。方五間の大型本堂で、明治17年(1884)に上棟しています。近世以前は、阿夫利神社の下社に伽藍を構えていましたが、明治時代の廃仏稀釈で仏教施設は破壊、仏像などは現在地に建てられた仮小屋に遷されたと言います。その後、明治9年(1876)に至って本堂の再建が開始され、同19年に本尊等が遷座しています。この時に建てられた本堂が現存の建物になります。その特徴は、建物各所に配された彫刻の数々です。時代の好みを反映してか、色は塗られていません。
彫刻の題材を一つ一つ見れば、伝統的なものとなっていますが、その選択に特徴があるように感じました。頭貫鼻には獅子、水引虹梁鼻は龍で、この辺りはよく見るものですが、特に私の注意を引いたのは、
向拝水引虹梁上には滝行を行う行者のような人物、唐破風棟木下には矜羯羅童子と制多迦童子と思われる像、そして向拝海老虹梁上には「温公の瓶割」の彫刻でした。
まず、一つ目に上げた滝行を行う人物について、この人が何者なのかについて私は推測を立てられていませんが、「大山縁起絵巻」に描かれる龍王が出現させた滝で水垢離を行う行者のようなものかもしれません。この人物が手に振鈴をもっていることから、あるいは「男山寺縁起」に記される両部の滝(現・塩川滝)の下にある仙窟から振鈴の音が聞こえる、という記述と関連があるかもしれません。これらについてはまだまだ調べが足りませんが、面白いので引き続き調べていきたいです。
次に、唐破風に彫られる矜羯羅・制多迦の二童子は大山寺の本尊が不動明王であるためと考えられましょう。ここには不動明王は彫られておらず、あくまで本尊をを参詣者に知らせ、示すために彫られたものと言えるでしょう。
そして、海老虹梁上の「温公の甕割」は、中国の故事に基づく題材で、日光東照宮・陽明門に見られるものが有名です。大山寺本堂では、「大瓶束」の瓶(=甕)と大山の水信仰(=水)からの連想でこの題材がこの箇所に彫られたのではないかと考えています。この題材の選択と見事に形にした技術は素晴らしいものと感心しました。なお、この大瓶束は向拝部分の垂木(打越垂木)を支える桁を支持するもので、軒を深く取ったための工夫かもしれません。この桁は向拝の幅で突然終わるため、端部がそのまま見えています。なかなか珍しいものなのではないでしょうか。
これらの他にも軒支輪・手挟・持送の花鳥、入母屋破風の二重虹梁を支える邪鬼など見応え十分な彫物がふんだんに用いられ、いずれも彫りは細かく、深く、江戸以来の技術の進展を見せています。
明治時代の建物ということで、あまり注目がされないのかもしれませんが、一見の価値があります。私ももう一度行って見たいと思っています。
本堂向かって左手には銅製の宝篋印塔があります。木造を模した形をしており、蓮弁の台座の上に一層、屋根をつけずに二層の縁、その上に垂木を配した屋根をのせて、相輪を掲げています。こちらも一層目の四隅に配した四天王、二層の縁下四隅にある「蜃」(この建物は蜃気楼なのかも。)、各面扉脇に配した霊獣など精緻な像が見どころです。青銅製でも木造建築を模していることは、当時の人々にとっての「塔」や「仏の建物」のイメージがどのようなものであったのかを考える手がかりになりそうです。この塔は寛政7年(1795)に建立、大正3年(1914)の関東大震災で破損したものを大正15年に復元したものと由緒書にありました。
このほか境内には鐘楼、庫裏、小堂などがたっています。
そして、本堂脇の道を上れば、阿夫利神社にたどり着きます。ここから上の建物は、関東大震災で山崩れもあったとのことで新しいものとなります。書いておきたい建物については①、②でまとめましたが、狛犬などについても加えたいので、それについては「大山その③」として記事を改めようと思います。